自転車×ファンタジーでラノベを書く

自転車界に激震が走る――かはわからない――自転車ファンタジーストーリーを書きたい!

流星☆オン・ザ・バイシクル(2)

   ◆

 

 かくして高級ステーキ店へと足を踏み入れたライとその姉。

 

 ライ姉が選んだのは、店内の適度な仄暗さが幻想的な気分を呼ぶ、ライひとりでは敷居が高くめったに入ったことのないような店だった。

 

ふたりはふたり席のテーブルを挟んで向かい合い、しばらく姉弟の他愛もない会話をしながらディナータイムを過ごしていた。

 

 その内容というのも、

 

 「会社の先輩がね、5年間付き合った人にプロポーズしたんだって! 答えはもちろんオッケーで、来月結婚式なんだって!」

 

 「この前見た映画ね、映像は綺麗で良かったんだけど、ストーリーがイマイチで、最後はちょっとがっかりしちゃった」

 

 「今読んでる本ね、すっごい面白いんだよ! 表向きは恋愛物語なんだけど、途中からミステリ要素が入ってきて、次に何が起こるかわからなくてもうワクワクしっぱなし!」

 

 「やっと明日は休みだー。今日はゆっくり寝れるぞお」

 

 「ライ君は好きな女の子いないの? 早くいい子見つけなよ。え、私? 私はまだいいかなー。少なくともライ君に彼女できるまでは、見守っててあげないといけないし。ん? 余計なお世話? フフ、顔赤くなってるよ」 

 

 全てライ姉のセリフの一部抜粋だ。ライ姉がひとり長々と喋り、ライが短く相槌を打ち、たまにライ姉が藪から棒に質問を浴びせたかと思えば、これまたライがてきとうに返すといった具合だ。ライは姉の長い語りに耳を貸すよりも、めったにお目にかかることのできない高級肉ハンバーグの舌触りの検分に必死なのだ。

 

 しっかりとした噛み応え、湧き出る肉汁、染み渡る旨味、文句なしのボリューム――うむ、申し分なし。さすがは学食で食べる定食の平均価格の約10倍の値段を誇るメニューだ。こりゃ美味い。

 

 せっかくこんなご飯をご馳走してもらえるというのだから、どこでも聞くことのできる姉の話を聞くよりもここでしか食べられない美味を堪能する方が理にも道義にも適っているし恩義に報いることができるというものだろう。

 

 というのはただの後付けの屁理屈で、つまるところこれがふたりの通常風景なのだ。姉も弟も平常運転中。普段通りでそれ以上でもそれ以下でもない。ライが大学に入ってからは、姉とふたりでこんな時間を過ごすことが多かった。

 

 普通モードをちょっと外れたことが起きたとすれば、それはふたりがメインディッシュを平らげ、タイミング良くやって来たウェイターにデザートを注文して品が届くのを待っている最中のことだった。

 

 さすがに話題の残り数が少なくなったのかライ姉がふと口を閉じ、これ見よがしにライは束の間の沈黙を堪能していた。

 

 時刻は午後10時を過ぎ、ふたりが店に入った頃より周囲の客の数は減っている。他の客の多くはカップルで、それぞれが静かに自分たちの世界に浸っているようだった。

 

 ライと姉も端から見れば仲の良いカップルだと思われていることだろう。それは傍目だけでなくふたりの会話を近くで見た者全員が思うことであり、これまでに晴海サイクル以外でもライの高校時代の友人やライ姉の学生時代の友人からも散々言われてきたことだった。

 

 ライ自身はそんな姉のことが嫌いではないしどちらかというと好きでもあって、でもカップル視されることは愉快ではないものの別に特段気にすることでもなく、つまりこれがもう慣れた日常なのであった。

 

 自転車競技に打ち込んでいた中学、高校時代は違ったのかと言えば、多少違ったのかもしれない。レースに熱中していたライは当然多くの時間を自転車に費やし、自転車関係者以外の人との交流はかなり少なく、姉もその例外ではなかった。

 

 それが、競技部を引退し、大学に入ってからはいつしか姉との会話の時間が増えていた。ライ姉も同じ年に社会人となり、友人との交流が減ったことも影響したのかもしれない。ライは大学ではサークルにも部活にも所属せず、積極的に友人も作っていないため、この1年と少しの時間ひとりでいる時間が比較的多かった。そんな自身の心の拠り所が姉になっているということは、ライ自身も気づいていたことだろう。

 

 どうしてそんなに自分のことを気にしてくるのだろう――そんなことを思った日も少なくはない。

 

 日本晴れのような笑顔を振りまきながらも、山の天気のように突然表情の雲行きを変えたりする姉が何を考えているのか、ライにはイマイチ掴めてなかった。

 

 何も考えていないように見えながらも、たまに親身になって心配をしてくれるときがある。それがどんなに些細なことであろうとも。そんなときライは、どう答えていいかわからずに狼狽し、流されるように気が付けば半ば無意識のうちに姉のアドバイスを聞き入れてしまっているということが多かった。

 

 そう、このときも同じで――。

 

 

 

 「それでさ」と、ライ姉は沈黙を10秒ほどで破る。

 

 「ライ君は自転車部、ほんとに入らなくていいの?」

 

 ライは本能的とも言える反応で顔を背け、しかめ面をして押し黙った。

 

 ライ姉はテーブルの上で腕を組み、弟に向かって身を乗り出すようにして続ける。

 

 「今2年生でしょ? 今からならまだ遅くはないよ。ライ君の実力なら、1年間ブランクあっても全然へっちゃらだと思うし」

 

 「いいよ」

 

ライはぽつりと答えた。その体勢で憮然としたまま、

 

「レースはもうしないって決めたんだ。姉ちゃんにも何回も言っただろ。その気持ちは今も変わってないよ」

 

ライ姉はふてくされる弟を見て微笑ましく思っている様子ながらも、どこか悲しそうな色を目に浮かべて、 

 

 「あの時のことがまだ引っかかってるの? でも、ライ君よく言ってたじゃない。レースに落車や怪我は付き物だって。下手したら死んじゃう恐れだってある危険の中でも特に危険なスポーツ、それが自転車なんだって」

 

 ライは目を逸らしたまま答えない。

 

 ライ姉は弟が無反応でいることを確認するように合間を開けながら、

 

 「やっぱりケンジ君のこと? ショックだったのはわかるよ。私だって、仲の良かった友達が死んじゃったらすぐに立ち直れる自信ないし。それで恐くなったっていうのなら何も言えないけど、ライ君のこと見てると、どうもそうは思えないんだよなー。レースしたいけどしない、って無理に我慢してるように見えるのよね。違う?」

 

 「……俺、そんな風に見えてる?」

 

 ライは視線を外したまま小さく答える。

 

 「うん。部屋で自転車眺めてるときなんて特にそう。昔を懐かしんでるような顔してるよ。あとさ、たまに近くで思い切り走ったりしてるでしょ。見たことあるよ。内緒にしてたけどね。バイトの先輩たちとだって、楽しそうにレースの話してたじゃん。やっぱり、自分もまだやりたいって思ってるからなんじゃないの?」

 

 「そりゃ、先輩たちから話振られたからさ。その話は嫌です、なんて言えねーし。それに、別にレースが怖くなったわけじゃねえよ。あれは不幸な事故だったとしか言えないし。誰が悪かったわけでもない。あんなことで別にやめたりはしない」

 

 「じゃあ、どうしてまたやらないの? やめる理由がないのなら、またやればいいじゃない」

 

 「それは……別に、続ける理由だって、特にあるわけじゃねえし。高校卒業したから、やめた。それだけだよ」

 

 答えるライはどこか逡巡している様子である。

 

「続ける理由なら、あるよ」

 

 「何?」

 

 「私が続けて欲しいと思ってるから」

 

 ライは思わず姉の顔を凝視した。

 

 いつものように微笑みを浮かべていない、真剣そのものの顔だった。

 

 真っ直ぐに見つめ返してくるその瞳には、何か熱意めいたものが感じられる。

 

 その意味を図りかねたライが声を出せずにいると、ライ姉はふと表情を和らげて、懐かしそうな声色で話し始めた。

 

 「私ね、ライ君は自転車に乗ってるときが一番ライ君らしいと思うの。ま、今だって学校行くのに乗ってはいるけど、そうじゃなくて。レースに熱中して、練習に打ち込んでた頃のライ君はほんとにライ君らしかった。かっこよかった。それでこそ私の弟、って感じでね。誇らしかったのよ。別に、今のライ君を非難するわけじゃないよ。でもね、何だか、今のライ君はライ君らしくない。大学行ってバイトして帰ってきて、後は家でぽーっとしてるだけ。何て言うか、生気を失ってるみたいっていうか、魅力度ダダ下がりね。フフ、姉ちゃんうっせーなって思った? いいよ、そう思ってくれて。これは私のひとりごとだから。別に聞かなくてもいいからね」

 

 じゃあ言うなよと顔に表示しているライを尻目に、ライ姉は独白を続ける。

 

 「とにかく、ライ君は自転車が好きなんだから、ずっと乗り続けてほしいって思うのよね。学校行ったり近所に出かけたりするのに使うだけじゃなくて、前みたいにもっと、熱狂的にね。乗りたくない、って言うなら無理にとは言えないけど、どうしてもそうは見えないんだもん。乗りたくて乗りたくて仕方ないのに、心に迷いが残ってるせいで乗れない。そうとしか見えない。だったら、早くその迷いの元を見つけ出して、振り切って、また乗り始めてほしい。もちろん、それがそんなに簡単なことじゃないってことはわかってるよ。でも、今のライ君は、迷いを見つけ出そうとしてるどころか、迷いから逃げてるように見える。迷いを遠く離れたところに追いやって、忘れちゃおうとしてるように見える。これでも、お姉ちゃんとして弟を見る目はかなり冴えてると思うんだけど、違う? フフ」

 

 問い詰めるような口調ながらもあくまで優しげな表情を崩さない姉からまた目を逸らし、ライはぼそぼそと答えた。

 

 「そんな簡単に言ってくれるけど、俺だってよくわかんないんだよ。迷ってるのは確かだと思うけど、何を迷ってるのかもわからない。そんな簡単な話じゃないんだ――たぶん。それすらもわからない」

 

 「つまり迷いに迷ってるのね。ケンジ君のことじゃないなら、ツトム君のこと?」

 

 ライ姉が何気なく言ったその名前を聞いて、ライは条件反射的に姉をきつく睨みつけた。頭のてっぺんまで血が上りかけたところで目の前にいるのが自分の姉だということに気が付いて我に返る。

 

 動悸がしていた。聞きたくなかった名前とは言え、姉に対してカッとなりかけたことを反省して呼吸を整える。これが姉ではなく見知らぬおっさんで、おっさんが同じ話をしてきたのだったらライは迷いなくおっさんのバカ面を殴りつけていたことだろう。

 

 ライ姉は寂しそうな目をしながらも、無理に作ったような笑顔でライのことを見つめていた。

 

 ライは気まずくなってまた目をそらし、姉に聞こえるのがやっとの大きさの声で言った。

 

 「ツトムのことは今話したくないんだ。悪いけど、これ以上は聞かないで」

 

 ライ姉は消えかかった蝋燭の炎のような微笑みを零し、「そっか」とだけ呟いた。

 

沈黙。ライは気まずく感じながらも、幸い頭の中で様々な記憶や感情が飛び交うのに気を取られていたために、この無言が苦とはならなかった。

 

 ライ姉がどんな気持ちでいたのかはわからない。彼女は哀れみとも悲しみともつかない顔で弟のことを見つめていたかと思うと、ものの10秒で気を取り直したようで、この沈鬱な空気を吹き飛ばすかのような声を上げるのだった。

 

 「ま、この話は今日はもうおしまい。変なこと言ってごめんね。もうこんな時間だし、そろそろ帰ろっか! うーん、それにしても、おいしかったなー、今日のご飯! 今週も頑張った自分へのご褒美ってことで、たまにはいいよね、こういうのも!」

 

 そうして店を後にし、ふたりで帰り道を歩いている最中、ライ姉は先ほどまでの重い空気を微塵も感じさせない明快なトークぶりを発揮し、ライも一瞬ではあったものの我を失いそうになったことなどすっかり忘れてしまっていた。

 

 赤の他人が見ればライはただおしゃべりな姉にうんざりと呆れているようにしか見えないかもしれないが、ライはこれでも、この姉の明るさには幾度となく助けられているのだった。自分がどんな状況にあっても、この姉だけはいつもそばで明るくいてくれる。その信念とも言うべき確固たる思いがあるため、意識的にしろ無意識的にしろ、姉の言葉はライにとって常に大きな影響力を持っていた。

 

 このときも家に帰り、風呂で体も心も綺麗に洗い流して床に就いた後、ライの心の奥底では今日の会話での姉の言葉がずっと響いていた。

 

 自転車競技部を引退し、大学に来てから1年と少し。レースの世界からはきっぱりと身を引いていたライの心が初めて揺れ動いた瞬間だった。 

 

 とは言っても、いきなりレース活動の再開を決心できるほど彼の心の芯ももろいものではない。心を動かされたとは言え、次の日にはこの日の会話のおそらく99パーセントは頭の中から消え去っていることだろう。しかし、例えそうだとしても、ライ姉の言葉がライの気持ちをごくわずかに、それが1ミリだったにせよ、前に押し出したことは確かだった。1ミリにせよ0.1ミリにせよ、1年間全く動かなかった心が動いたのだとしたら、それは大きな変化に違いない。

 

 実際、次の日になってもまたその次の日になっても、その気持ちが元の位置に戻ることはなかった。一度固着から解放された心は、それがどんなにゆっくりだとしても、確実にずれ動いていくこととなる。

 

 そしてそのズレが決定的となったとき、彼は出会うのだった。

 

 未知との邂逅を境に、彼の目の前には新たな世界へと続くレールが敷かれることとなる。

 

それは、夜空の下での出来事だった――。

 

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