自転車×ファンタジーでラノベを書く

自転車界に激震が走る――かはわからない――自転車ファンタジーストーリーを書きたい!

流星☆オン・ザ・バイシクル(9)

 ●冒頭へ

 

 

 ◆ 

 

 小泉に連れられ、ライは団地の中では端の方、川沿いから団地の中へと続く道路沿いで川に一番近い位置にあるマンションの前まで来た。

 

 高級感溢れるガラス張りのロビーの前で待たされることおよそ5分。少なくとも自分の住んでいるマンションの倍の価格はしそうな家々に囲まれて落ち着かない気分でいると、ショートパンツに春っぽいTシャツという動きやすそうな格好に加えて、何故か指切りグローブにサンバイザーという出で立ちでロビーの奥からやって来る小泉の姿が目に入る。

 

 帰ってくるときに乗っていたシティサイクルはマンションの自転車置き場にしまっていったはずだが、小泉はまた別の自転車を押して来ていた。自転車を部屋で管理するというのは一般的には自転車乗りしかしないことだから、小泉のそんな姿には違和感を覚える。何のつもりだろうと眺めていると、その自転車の姿をはっきりと捉えたところで、ライは思わず「お」と感嘆の声を漏らしてしまうのだった。

 

 「じゃーん! どう? 私の自転車。大学に入ってからバイトしてお金溜めて買ったんだ。ロードバイクは怖いから、クロスバイクにしちゃったんだけど。ジン君は、クロスバイクは興味ない?」

 

 誇らしげながらも少し不安げに表情を伺ってくるような小泉が支えている自転車を、ライは興味深げに眺める。そして、小泉の格好にも納得がいくのだった。

 

 全体的にロードバイクほど細くはないが、シティサイクルよりは抜群にスラリとした細身のフラットバーハンドルバイク。エントリーモデルとして人気の高いGIANT製クロスバイクだ。 

 

 ホイールは純正のままで、パッと見る感じは自転車の世界に長く身を置いている者の目にはごく普通のクロスバイクに映る。それでも、さわやかな水色のフレームに合わせて同色のラインが入ったタイヤに変えられていたり、コラムスペーサーから各所ボルト、ボトルケージなど、あちこちに水色のパーツがさりげなく使われていたりするこだわりをライは見逃さない。

 

 スタンドのついていない自転車をハンドルステムを掴んで支える姿勢や、身長にあったサドル高。しっかりと掃除され、整備もされていることを伺わせるその綺麗な自転車からして、小泉が玄人とまではいかずとも、少なくとも『自転車好き』としてこのクロスバイクに乗っていることは、これまでたくさんの自転車乗りと関わってきたライには一目瞭然だった。

 

 「あーれ。小泉って、自転車好きだったっけ?」

 

 そこにいるだけで見せつけられているような感をもよおす健康的な肢体の持ち主を見ながらライは言う。

 

 少なくともライには、高校で小泉から自転車が好きだというようなことを聞いた覚えはなかった。それだけに、小泉の口から『ロードバイク』や『クロスバイク』といった専門用語が出てきたのは意外だったのだ。

 

 小泉は少し照れているように笑いながらも自慢げといった様子で、

 

 「ううん、好きになったのは、大学に入ってからかな。でも、高校のときから興味はあったんだよ! ずっといいなーって思ってて、最近になってやっと始められたって感じ! ほら、ジン君が乗ってるような本格的な自転車ってすごい高そうなイメージだったし、それに、スピードもすっごい速そうだし、私にはちょっとハードル高いかなーってずっと思ってたんだけど、調べてみたら、クロスバイクならそこまで高くもないしロードバイクよりは手軽に始められそうだし、私でもできるかな、って思うようになったの。それでそれで、大学入ってからバイトしてお金貯めて、去年の夏に買ったんだ!」

 

 「へー」

 

 表情に乏しいせいで一見無関心そうに見えるが、ライはこれまでの小泉のどのセリフよりも集中して耳を傾けている。

 

 「でね、でね、正直言って最初はちょっと怖かったんだけど、乗ってみたらこれがすっごい楽しくて! 自転車ってこんなに面白かったんだ、ってもうほんとに感動しちゃって。うーん、何て言うんだろ。この私の感動を表してくれる言葉は……ううん、すぐには見つかんないな。でも、うん、もう、何だろ。ほんとに楽しい、って感じ! すっごい面白いの。あまりの感動に、夜ひとりで泣いちゃったくらい」

 

 楽しいや面白いといった言葉をこの数秒間で何回聞いたかという疑問はさておき、ライはこのときばかりは小泉に多少なりとも興味を持たざるを得なかった。

 

 自転車乗りの輪からは外れた存在だと思っていた人物がいつの間にか近い距離になっていたのだから驚きだが、これも自転車を好く者としての性というものだろう。うるさいほど喋る女子だろうが誰だろうが、自転車好きと知ったら興味を持たざるを得ない。

 

 「ふーん。じゃあ何、今はサイクリングサークルとか入ってるわけ?」

 

 「そうそう、よくわかったね! そうだよ、大学のサイクリングサークル入ってるよ。去年は合宿で長野に行ったりもしたんだ。あ、でも、サークルはどちらかと言えばただ入ってるだけって感じかな。ううん、合宿も行ったし定期的に顔出してもいるから幽霊部員ってわけじゃないんだけど。サークルはどちらかと言えば、誘われたから入ったって感じかなー。あ、いや、別に興味なかったとかって、そういうんじゃないんだけどね。えっと、つまり、何が言いたいかって言うと、サークルにも入ってるんだけど、他のチームっていうか、集まりって言うのかな? 他で知り合った人たちとよく一緒にサイクリングしてるんだ!」

 

 「ショップのチームみたいな?」

 

 「そうそう、ショップのチームみたいな! ううん、正確にはショップのチームじゃないんだけど、ショップじゃなくて、代わりにある人が中心になってるって言えばいいのかな。その人がいろいろサイクリングのイベントを企画してて、私もそれによく参加してるの。そこで知り合った人たちって感じ! それでね、その主催者の人が荒川走ってる人たちの中ではけっこう有名な人なんだけど、もしかしてジン君も知ってるかな? ……魔人って呼ばれてるんだけど」

 

 小泉は自分で言ったことがおかしそうに笑い、ライは思わず眉を八の字に寄せて最後の部分を聞き返しそうになった。

 

 『魔人』などという名前のついた人物は思い当たらない――っていうか、何だその、ふざけた名前は。

 

 「本当はソータロウさんっていう名前みたいなんだけどね。魔人ソータロウだなんて、自分で言ってるから」

 

 小泉はくすくす笑いながら付け足した。

 

 自分を魔人などと名乗るとは相当に風変わりな人物なのだろうとライは想像する。ソータロウにしたって、ライの記憶の中に思い当たる人物はいない。

 

 「あいにくだけど魔人は知らねーな。そんな変な名前の奴、聞いたこともない」

 

 ライが素直にそう言うと、小泉は少し意外そうに、

 

 「変な名前の奴って。ププッ、確かにその通りだけど、一応年上の人だよー。でも、そっかー。有名な人だから、もしかしたらって思ったんだけど。レースとか本格的にやってる人たちにはそんなに知られてないのかなあ」

 

 「かもな。競技部ではそんな話聞いたことないからな」

 

「えー」

 

えー、と不満そうな顔をされてもないものはないのだから困る。

 

ライはしかし、魔人ソータロウに関しては何も知らないが、この話を聞いてふと思い出したことがあった。

 

 (荒川の幽霊ライダーは周辺の走り屋の間ではちょっとした有名人になってるみたいだ――)

 

 2日前に夜の荒川でブロンドの乗り手に会う前、先輩3人と幽霊ライダーの話をしていたときに山田が言ったセリフだ。

 

 まだブロンドの乗り手が件の幽霊ライダーだと決まったわけではない。でも、自分の体験した事実からして、その可能性が高いとライは踏んでいる。この際ライにとっては、幽霊なのかそうじゃないのかという問いは意味を成さない。重要なのは、あのとき途方もないなスピードで自分を抜いて行ったブロンドの乗り手が何者であるかということだ。そして、そのブロンドの乗り手と幽霊ライダーと呼ばれている存在の間に少なくとも何かしらの関連性があることは公算大だ。

 

 

 ――あのときのMAXスピードは64キロ。

 

 

 ――それを軽々と抜くスピードとは――70キロ。もしくはそれ以上。

 

 

 ――暗闇に輝く、金の髪……。

 

 

――(荒川走ってる人たちの中ではけっこう有名な人なんだけど)――

 

 

 ――(ちょっとした有名人になってるみたいだ)――

 

 

 何かいい案が頭の中で浮上してくるような気配があったが、ライはそれを奥に押しとどめておいた。

 

 久しぶりに再会した高校の同級生との会話にいきなり実態のよくわからない話題を持ち出すのははばかられる。

 

 代わりにライは、束の間口を閉じていた小泉がまた高速連射を始める前にこう提案した。自転車好き同士、知り合ったら言い出さずにはいられない常套句のようなものだ。

 

 「とりあえずさ、グローブも着けてきたってことは乗るつもりで来たってことだろ? やっぱファミレスはなしにして、ちょっと走りに行こうぜ。自転車持ったまま乗りもしないで話してるのは疲れる」

 

 すると、眩しいほどに白い肌が映えるライの童顔同級生は待ち望んでいたようにスマイルマークの如く笑み、モーターが異常回転し出したかのように首を何度も縦に振るのだった。

 

 

 ●前話

流星☆オン・ザ・バイシクル(8)

  

 (続き)

 ライの言葉を聞くや否や、童顔の女は果汁が弾けだすくらいの喜色満面っぷりで、

 

 「あー、やっぱり! わああ、すーっごい久しぶりだね。まさかこんなところで会うなんて思ってなかったからびっくりしちゃった! えええ、すごいなあ……。まさかこんなところで会うなんて……ってこれ2回言ったね。ええと、奇遇ってやつ? えええ、でもほんとにすごい。久しぶりだなあ……ジン君、変わってないね。まさかこんなところで会うなんて思ってなかったから、あれ、また言ったような気もするけど、えっと、とにかく、びっくりしちゃった……ん? 違う、それが言いたかったんじゃなくて、うーんと、そうそう。すぐわかったよ! ジン君だって、見たらすぐにわかった!」

 

 あまりの感激に思考回路がショートしてしまったかのような喋りっぷりだ。

 

 そんなハチャメチャな様子に狼狽しながらも、ライは冷静な思考の結果自然に浮上してきた疑問を簡潔に口にする。

 

 「ええと、何で小泉がここに?」

 

 女、小泉はバラエティ番組から急にドキュメンタリー番組に変えられたテレビのようなすばやさで表情を変え、

 

 「あ、そうそう。それ私も聞きたかったの。 何でジン君がここにいるの? あ、いや、別にここにいられて嫌とかそういうわけじゃないんだよ。ただ純粋に、どうしてなのかなーって思って。ええと、つまり、どうしてここにいるの?」

 

 「俺は……ちょっと寄り道って感じかな」

 

 「寄り道かあ、そっかー。それ、ジン君の自転車だよね? 自転車で寄り道したってことかな? あ、もしかしてだけど、荒川走ってたの? 荒川走ってるときの寄り道なら、そっか、ここちょうどいい場所だもんね!」

 

 「まあ、そんな感じだな」

 

 「うんうん、そんな感じ! ん? そんな感じって、私が言うのはおかしっか。へへ、ごめんね。あんまりびっくりしちゃったもんだから、ちょっと動揺してるみたい。わー、何かバカみたいで恥ずかしいな」

 

 「……」

 

 「なーにその顔。ほんとにバカだって思わないでよ? これでも一応、国公立に通ってるんだからね。ジン君も大学だよね? あっ、そうだ。ジン君はそのまま上に上がったんだっけ。あっ、いや、別にバカにしてるわけとかそういうわけじゃ全然ないよ。ジン君、高校のときから頭良かったもんね。部活もやってて、まさに文武両道、って感じ。わー、私何言ってんだろ。国公立通ってるからって頭いいとは限らないし。勉強できるのと頭いいのは違うしね。私も勉強だけは頑張ったつもりだったけど、頭の良さではジン君にかなう気がしないなあ、ってほんと私何言ってんだろ。わああん、バカみたいで恥ずかしいい」

 

頭の処理能力を超えるような速さで次から次へと喋られるものだから小泉のセリフはライの頭にほとんど入らない。

 

 「ええと、それで、俺の質問の答えは……」

 

 ライがおそるおそる言うと、小泉はきょとんとして、

 

 「ん? あれ、なんだっけ。何の話してたんだっけ。私の大学? そっか、高3のときはほとんど会わなかったから、知らなくて当然かー。私ね、今は、」

 

 「じゃなくて、小泉が、何でここにいるかって話」

 

 小泉は突然の異常により動作停止したパソコンのように固まったかと思うと、5秒ほどで処理を完了したようで、パワー全開で再起動したように、

 

 「あー、そっか。その話だったね! ジン君が寄り道したっていうのは聞いたけど、私は何も話してなかったよね。うわ、相手にだけ答えさせといて、自分のことは教えないって私バカだなー。ごめん、いっつも気を付けるようにはしてるんだけど、どうしても次から次に話したいことが思いついちゃって、忘れちゃうことが多いの。だからバカだっていっつも言われるんだよなあ……」

 

 「……」

 

 「あっ、ごめんごめん。まーた自分の話ばっかりしちゃった。私の話なんて興味ないよね。もう私のバカバカバカ。これだから男の子にも嫌われちゃうんだよ。この私のボケナスビ。オタンコナス」

 

 「それで、」

 

 「ん? 私の大学? あっ、そっか。まだ言ってなかったんだ。私ね、今は、」

 

 「小泉」

 

 ライはたまらず片手で機関銃トークの女を制す。

 

 弾が詰まったかのように小泉は口を止め、束の間の沈黙。ライはこの間に過去の記憶が頭の奥底から表面へと強制送還されてくるのを止めることができなかった。

 

 小泉ユイ。ライの高校時代の同級生で、1年時と2年時に教室を共にしていた仲だ。

 

 聴覚に刻まれている通りのこの喋り口調。誰の目から見ても全校で上位には入る美少女っぷりを発揮していたこの童顔。

 

 あどけない少女としては非の打ちどころがない体の各パーツを揃え、男子からの人気のかなり高かったこの女と、ライはそれほど親しかったわけでもない。

 

 少なくとも、ライは特別親しいと感じていたわけではなかった。クラスではあまり目立たない存在だったライに小泉の方が一方的に話しかけてきていたような形だ。だがそれゆえに、3年間部活動にかかり切りになり、それ以外の場所での交流が少なかった高校時代、クラスで比較的会話することが多かったのがこの小泉だということは事実だ。

 

 そのわずかな時間の交流だけでも、記憶をしっかりと頭に植え付けてくるだけの存在感をこの人物は放っていた。3年時からは小泉が他大学進学コースに進級したために疎遠になり、大学に入ってからは特に思い出すこともなかったのだが、こんな形の再会をしてしまったが最後。再び記憶の底に押し戻すためにはしばらく時間がかかりそうだ。

 

 「もしかして、この近くに住んでるとか?」

 

 同じ方法では埒が明かないと見て違う方向から攻めてみたライ。

 

 すると、これが功を奏したようで、小泉は慌てたように、

 

 「あーっ、そうそう、そうなの。ごめん、それを最初に言うべきだったよね。そっか、そういえば教えたことなかったね。私、このマンションに住んでるんだ。今は学校帰り。今日は授業が3限までで特にやることもなかったから、早めに帰って来たの。ジン君ももしかしてその格好、学校帰りとか?」

 

 やっと疑問を解消できたことでライはほっと胸を撫で下ろす。

 

 「学校帰りっちゃあ学校帰りかなあ。家はこっちの方じゃないんだけど」

 

 「そっかあ。家は違う場所なんだけど学校帰りなんだね。ってことは、寄り道? あっ、寄り道だっていうのはもう聞いてたんだ。ええと、じゃあ、何でここにいるの……じゃなくて、えっと、あっ、もしかして荒川走ってたの? そっか、荒川走ってるときの寄り道なら、」

 

 「気晴らしにサイクリングしてたんだよ。飲み物なくなったから、ここ寄っただけ」

 

 そういうことにしておいた。久しぶりに再会した高校時代の同級生に向かって、まさか『夜に荒川で幽霊ライダーに会ったから来た』なんてことは言えるはずもない。

 

 小泉は喋るのを妨害されたことを気に留める様子もなく、

 

 「えーっ。飲み物なくなっちゃたの? そっかまあ、最近あっつくなってきたもんね~。自転車乗ってたらそりゃ喉も乾くよ。しかたないしかたない」

 

 どう反応していいかわからず、ライは何とも言えない苦々しい思いで小泉のことを見つめていた。

 

 高校時代と同じだ。競技部に入っていた頃、ライの頭は常にそっちのことでいっぱいだったため、自転車の知識のないクラスメイトたちとあまり深い仲になることはほとんどなく、教室では常に孤立しがちだった。

 

 本人はと言えば部活という自身の基盤となるコミュニティがあったためにそんな状況を特に気にはしていなかったのだが、何故かそんなライにこの小泉という女子生徒は積極的に話しかけてきたのだ。

 

 もっとも、小泉は男女構わず誰とでも同じように話すような性格ではあって、その数ある相手の内のひとりだっただけだと考えることもできる。。それでも、特にこの点火タイミングの狂った新世代ハイパワーダウンサイジングドッカンターボエンジンのようなトークの被害にあっていたのは自分であるとライは感じているし、おそらくそれは本当だろう。

 

 

 ――始まりはなんだったっけか。

 

 

 ふとライは考えてみたものの、次に小泉が喋る出すまでの数秒間は思い出すのには短すぎた。

 

 返事が返って来ないことが予想外だったかのように小泉はどぎまぎと、

 

 「あ、えっと、うーんと、私また何か答えてなかったっけ。何だっけ。うーん、うーん、思い出せないなあ、へへ」

 

 ひとりで勝手に照れ隠しのような笑いを向けられても困るというもので、ライはため息交じりに、

 

 「何も聞いてないから大丈夫だよ。お前も、高校んときから全然変わってないな」

 

 「えっ、そう? うん、ま、そっかなあ。他の友達にもおんなじこと言われた。そっかあ、変わってないのかあ。自分ではけっこう変わったつもりなんだけどなあ。でも確かにそう言われてみると、何が変わったかってうまく言えない気がするなあ。えーっと、例えば、前よりはドジじゃなくなった……って言ってもそうだ。そんなことないってこの前言われたんだった。うーん、そしたらどうかなあ。やっぱ変わってないのかなあ」

 

 何か相槌ちを入れるべきなのかライは迷ったが、言い終わってから不意に不安そうな目を小泉が向けてきたことからすると何か言うべきだったのだろうが、それに気が付いたときはもう遅く、

 

 「あーんもう! またどうでもいい自分の話ばっかりしちゃった。ジン君ごめんん私がこんなんだからって嫌わないでええ。バカって思われるだけなら……まあ、それは本当のことなんだろうし、仕方ないから諦めるけど、嫌われたくはないよお。ジン君までに嫌われたら私……」

 

 「あのさ、」と、ライは小泉の直近のセリフの99%を無視し、

 

 「こんなところで立ち話もなんだから、どっかファミレスでも入って話す? せっかくだし。時間あるのならだけど」

 

 ライにとっては何気ない誘いだった。コンビニの前で立ったままこの無限連射トークを聞いているのも疲れるし、かと言ってまだまだ温まったばかりでオーバーヒートさせるには今の10倍は過酷な状況に置かないとならなそうなこの状況でじゃあバイバイと言って去るのも忍びない。

 

 ひとまず心を落ち着けられるひと時を手に入れたくてとっさに出てきた提案だったのだが、小泉にとってはかなり意外だったようだ。

 

 突然目の前に運命の異性が降って来たかのように目を丸くして固まったかと思うと、その2秒後には満開のひまわりのような笑顔をつくって、

 

 「うんうん、いこいこ! 時間ならいくらでもあるよ! ありすぎて困っちゃうくらいだから、ほんともう、今日も帰ってから何しよっかなーってずっと考えながら帰って来たとこだったの! そしたらそこにジン君が急に現れたもんだから、ほんとにもうびっくりしちゃって。ええと、これはさっきも言ったよね。うん。ごめん」

 

 とにかく動き出すきっかけを作ろうとライは自分の自転車に跨り、片足のクリートをペダルにはめる。

 

 バチンッ――ビンディングが奏でる甲高い音で閃いたように、小泉は続けてこう言った。

 

 「あっ、そうだ! ジン君ちょっと待って。行く前に見せたいものがあるんだ!」

 

 

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流星☆オン・ザ・バイシクル(7)

 2話『もぐりんぐ』

 

 ●冒頭へ

 

   

  

 

 授業が終わると同時に荒川へ直行したライ。

 

 昨日も今日も、夜の荒川で出会ったブロンドの乗り手のことが気になってしまい、学校にいても授業どころじゃなかった。

 

 2日前、暗闇をものともせずに悠々と自分を抜いて行った謎の乗り手。滝のようにヘルメットから流れ出ていた金色の髪が優雅に宙を舞う様子が頭から離れない。

 

 

 ――あれは、女だったよな?

 

 

 ライは回想する。

 

 あまりに突然のことで、しかもあの暗さの中だったから、その姿をはっきりと見ることができたと言うには程遠い。それでも、ブロンドの長髪から発せられる金色の光に包まれるようにしていた乗り手の姿は、そのわずかな時間に間にライの頭に強烈な印象を残していった。

 

 これまた光るように綺麗な白い肌、サイクルウェアに強調された女性的な体のライン、均整の取れた長身。

 

 パッと見た印象は、欧米人モデルのような人だった。鍛え上げられた身体を持つスポーツ選手とはかなり印象を異にする。

 

 

 ――あんなスピードで……。

 

 

 先輩3人が皆その姿を見ていなかった点含め、不可解な点が多かった。ライはひとりで飛ばしていたとは言え、後ろにいた3人から見えなくなるほど遠ざかっていたわけではない。ブロンドの乗り手が途中からいきなり現れたのだとしても、抜かされるところを見られたはずだ。ましてやテールランプ以上の光度はあっただろうあの金の輝き。見落とすわけがない。

 

 本当に幽霊だったのかもしれない、という気持ちも芽生えていた。しかし、ビジュアルに不快な点があるわけでもなく、佐藤が持ってきた話のようにあの後事故を起こしたわけでもない。幽霊だったのだとしても、恐怖心はまったくなかった。むしろ魅力的とも言える幽霊だ。

 

 

 ――何にしろ、もう一回会って正体を確かめなきゃな……。

 

 

 現在時刻はまだ16時を過ぎたところで、辺りはまだ十分に明るい。天気も良く、他のサイクリストやジョガーの姿もよく見受けられて、夜とは雰囲気が正反対だ。

 

 本当は昨日すぐにでも来たかったところだったが、月曜日は夜まで授業があり、真面目な学生を自負しているライに授業をサボるという選択肢を取ることはできなかった。

 

 あのブロンドの乗り手とまた会いたいという気持ちがはやる一方で、『まだ早い』と自制を効かせる自分もいる。日曜の夜に久しぶりに強度の高い乗り方をして、ライは自身の体力が1年前と比べて著しく低下していることを思い知らされることとなったのだ。

 

 だから、もう一度あのブロンドの乗り手に会うとしても、せめてもう少し体力を取り戻してから、という気持ちが強かった。

 

 それに、まだあの乗り手が幽霊だと決まったわけでもない。もしかしたら、光って見えたりしたのは気のせいか目の錯覚、もしくは何かしらの視覚効果で、後ろにいた3人が見えなかったのも偶然。本当にただめちゃくちゃ速いというだけの普通の人だったのかもしれない。

 

 もしそうだとすれば、何も夜にしか現れないとは限らない。昼間だって走っているかもしれないし、そもそも毎日現れるというわけでもないだろう。実は遠くに住んでいる人で、この前はたまたま夜の荒川を走っていただけで、もうここへは来ないということもあり得るかもしれない。

 

 そういった不明確な点が多いということも踏まえ、ライはとりあえず明るいうちにもう一度荒川へ来ることを選んだのだった。何かわかるかもしれないからというわけでもなく、ただそうしないことには自分の気持ちが収まらなかったのである。

 

 ライの通っている大学は晴海から南東へ5km弱、東京湾に面する有明にある。そこから荒川へは湾岸道路を使ってものの20分ほどで河口までたどり着けるため、ライは授業が終わるや否や学校を飛び出し、普段着でリュックサックも背負ったまま荒川サイクリングロードへ突入。上流方面に向かってゆっくり走って来たのだった。

 

 ちなみに荒川サイクリングロードには右岸と左岸があるが、競技部時代からライはより道の広い右岸を選ぶのが習慣だ。よって以下は荒川サイクリングロードと言えば、特記しない限り右岸のことを指すことになる。

 

30km/h程度のペースで流すことおよそ1時間。大勢のサイクリストを収納できるほど道は広く、前へ向けば視界の端から端まで土手の中。そんな広漠とした景色が延々と続く荒川は、のんびりと走るのにはうってつけの場所だ。

 

 ボトルの中身が空になり、予備の飲み物も持っていなかったライは一度土手に上がって休憩することにする。

 

 川のすぐ隣にパステルカラーのマンションが南国めいた雰囲気を醸し出す団地があり、その奥にコンビニがあることは以前も何回か来たことがあったから知っていた。

 

 近くに小学校があるため、この時間は学校帰りの子どもたちでそこら中が賑わっている。わいわいと楽しげな空気の中、ライはコンビニで買ったスポーツドリンク片手に店前でくつろいでいた。

 

 道路を挟んでコンビニの向かい側に小学校があり、そしてその隣が公園の広場となっている。夕空の下で緑の眩しい芝生が広がっており、子どもたちが走り回って遊んでいるのが見える。

 

 時おり学校帰りであろう中高生が公園の中を通ってきたりするのをライは何とはなしに眺めていた。ひとりでぽつぽつと歩いていたり、男女で並んで楽しそうに会話していたりする。すると、そんな中に混じって、奥の方から自転車を押しながらやって来たひとりの女性の姿が目についた。

 

 傍らにある自転車はホームセンターに売っているようなシティサイクルで、ライの興味の範疇にあるような代物ではない。かと言ってライは街中で見かけた女性に興味を持ち、じろじろと見続けるような性癖があるわけでもない。

 

 それなのにどうしてその人のことが気になったのか。それは、ライはその人に見覚えがあったからだった。

 

 公園から出ると、その人は自転車に乗り、横断歩道を渡ってライのいる方へ向かってくる。

 

 細身で背は平均的、特徴的と言えるほどにクリクリとした目をしていて輪郭も丸っこい。赤ちゃんのようにぷにぷにそうな肌をしていて、一見小学生か中学生に見間違ってしまいそうだが、あどけない顔とは裏腹に大人びた服装や体格からしてライと同年代だとわかる。

 

 この時点でライはまだ、見たことがあるような気がするもののそれがいつどこでのことだったかは思い出せずにいた。

 

 記憶の中を探し回っているうちに、自分でも気づかぬうちにまじまじと見つめてしまっていたようだ。自転車に乗った彼女もコンビニへ用があったのだろうか。肩まで伸びた黒髪をなびかせてそのまま一直線、目の前まで来たところでそこにいるライの存在に気が付いたようで驚いように急停止。目が合った。

 

 ぽかんと見つめ合ったままおよそ3秒。女の方が先に口を開いた。

 

 「もしかして……ジン君?」

 

 その瞬間、頭の中で複雑に絡み合っていた糸が綺麗に解けたときのような爽快感とともに、ライは目の前にいる人の名前を思い出すのだった。

 

 「あ……小泉か」

 (続く)

 

 

 ●前話

流星☆オン・ザ・バイシクル(6)

 

 (続き) 

 横に並んだのは一瞬のことだったが、それでも目測90mmのディープリムに加えて、エアロ形状のフレームも確認できた。乗っている人物は欧米選手のように背が高いようで、サドルはライよりもかなり高く、ハンドルとの落差もものすごい。

 

 そして、何より目を惹いたのは、その人物の髪だった。

 

 ヘルメットから流れ出るように宙になびくブロンドの長髪。自転車の全長をも越えようかというその髪は、さながら竜が空を飛んでいるかのように、その末端までもが1ミリも残さずタイヤに巻き込まれない高さで舞っている。

 

 それは、月明かりに照らされているのにしては不自然なほどに輝き、流れ星のように金色の尾を引いていた。

 

 淡い光に包まれ、真っ暗だというのにその人物だけははっきりと視界に映っている。

 

 50mの差が開く一瞬のラグの後、ライは本能的に反射して再びペダルを踏みこんだ。

 

 考えたのではない。抜かされたら追いかけるという競争本能が目を覚ましたのだ。競技部時代にはフル稼働という具合に活発に働き、この1年間はすっかり眠ってしまっていたのだが、それが叩き起こされたのである。

 

 ――しかし、既に遅かった。抜かされてから一瞬で50mもの差をつけるこの相手に対しては、その一瞬のラグが命取りだった。

 

 トップスピードに乗る前に、金髪の乗り手ははるか視界の先へと離れてしまっていた。

 

 実力の差を身体で感じ取り、これ以上追うのは無駄だと判断し、足を緩める。現役の頃なら今とは比較にならないほどのパワーで追うこともできたであろうが、このときのライにはこれが精いっぱいであった。

 

 気づかぬ内にすっかり息が上がってしまっていた。本気に近い気力を使ってから一度気を緩めると、再び引き締めるのは困難というものだ。ライはゆっくりとスピードを落とし、やがて止まって地に足をつけた。

 

 もはや先ほどの乗り手の姿は見えない。ブロンドの髪をなびかせたあの乗り手は、瞬く間に先へ行ってしまった。

 

 

 ――何だったんだ?

 

 

 ライはあっけに取られると同時に困惑していた。

 

 

 ――あんなに速い奴、見たことねーよ。

 

 

 いくら現役の頃より体力が落ちているとはいえ、それでも力の差を歴然と見せられるような走りだった。

 

 

 ――軽々と、あんなスピード。同じ人間とは思えない……。

 

 

 ふと、走っている最中にも浮かんだ言葉が再び頭に蘇る。

 

 

 ――幽霊? でも、幽霊にしては、しっかりと人間味があったぞ。 自転車も、本物にしか見えなかったし。

 

 

 道の端で呆然と立ち尽くしていると、聞きなれた声が聞こえてきてライは我に返る。

 

 「あー、いた。やっと追いついた。ジン、お前はえーな! さすがは元競技部といったところか。でも、まさかそこまで速いとは思わなかったぜ……」

 

 最初にやって来た山田が言った。ライの走りを見て心底感心している様子である。

 

 続いて佐藤、鈴木の順にやって来る。3人とも息を驚きと困惑の色を顔に浮かべながら、息を切らしていた。どうやらライの後を追ってかなりペースを上げてここまで来たようだ。

 

 「ひいい、やっと追いついたー! ジン……お前マジかよ……。そんなに速いなら速いって最初から言ってくれよなあ。俺、自信失くすぜ……」

 

 鈴木は止まって地面に足をつくと同時にハンドルに乗りかかるようにしてうなだれた。

 

 「こいつは元競技部なんだ。速いのには決まってるだろうよ」と、山田が慰めるように言う。

 

 佐藤は顔に汗を垂らしながらも、何やら訳知り顔で薄ら笑いを浮かべていた。

 

 特に興味がないのか何も言わない佐藤と同じようにライも無言だ。ライにとっては今、追いついてきた先輩3人のことなど頭に入らないのだ。

 

 ブロンドの乗り手が去った方を、ただ黙って見つめ続ける。追いつけなかったという悔しさよりも、恐れに近い驚きが心を占める割合の方が圧倒的に大きかった。

 

 

 ――一体、何者なんだ……。

 

 

 抜かしていった者は、もう遥か彼方先だ。

 

 「それにしてもさー。ジン、すげー飛ばしてたよな。いきなりどうしたんだよ。急に昔の気持ちに戻りでもしたのか?」

 

 鈴木のその言葉には、ライの方がクエスチョンマークを増やすこととなる。

 

 「先輩たちは、あいつを見なかったんですか?」

 

 ライがそう聞くと、「あいつ?」と鈴木は首を傾げた。

 

 「俺らの他に誰かいたのか? 誰も見えなかったけどな」

 

 山田もそんなことを言う。

 

 「まさか、幽霊?」と、佐藤は嬉しそうににやにやとしているが、何か知っているわけではなさそうだ。

 

 ライはさらに困惑した。

 

 自分の走りなんかよりあのブロンドの乗り手のことの方が話題に上がってもおかしくはないし、むしろそっちの方が自然なくらいなのに、話題に上るどころか、この3人はブロンドの乗り手を見ていないかのような口ぶりだ。

 

 ライは慎重になって、下手なことは言わないようにする。

 

 

 ――この3人は、あいつを見ていない?

 

 

 幽霊。その言葉がライの頭の中を占めた。

 

 すさまじく速いスピード。不自然なほどに綺麗な長髪。自分しか見ていないという事実。

 

 この状況を説明できる言葉は、まさしく幽霊でしかない。

 

 

 ――荒川の幽霊ライダー。

 

 

 「どういうことだ? あいつって、誰のことだよ。まさか、本当に幽霊がいたとか言うんじゃねえよな」

 

 「嘘だろ……ちょっと待ってくれよ。俺たちゃ誰も見てねえぜ」

 

 山田が真剣な表情で言うのにつられ、鈴木も不安げな様子をあらわにする。

 

 ライはできるだけ平静を装って答えた。

 

 「いや、まさか、違いますよ。ほら、あれです……ええと、土手の上にJKがいたんですよ。すげー可愛い。だから、ちょっとカッコつけようと思って……っていう話ですよ」

 

 「……はあ?」

 

山田と鈴木は揃って目を丸くした。

 

 「JKなんていたっけ? 暗くてわからなかったな……ってかジン、お前よくこの暗さで可愛いなんてわかったな……ってかそもそも、ジンってそんな趣味だったっけ?」

 

 鈴木のツッコミ。

 

ライがあたふたして返答に困っていると、山田が意地の悪い笑みを浮かべ、追い打ちをかけるように、

 

 「おいおい、本当にJKなんていたのかあ? ジンよお、お前何か隠してるんじゃないだろうなあ」

 

 「か、隠してなんかないですから。本当にいたんですよ。いやあ、可愛かったなー、ハハ」

 

 誤魔化して逃げようとするライ。山田と鈴木は明らかに納得していない顔をしていたが、そこに不意打ちをかけるように後ろで佐藤がぼそっと呟いた。

 

 「もしかして、そいつが幽霊かもな」

 

 「はあ?」と、山田と鈴木が1分前とほぼ同一のトーンで振り返る。ライはこのときばかりは佐藤に感謝し、さりげなくその場を去るようにして再び走り出した。

 

 それから10分と経たずうちに、重圧的なの暗さに全員が耐えかね、結局この日は早々に引き上げることとなる。

 

 帰り道、『幽霊ライダー』も見つけられず、わざわざ夜に荒川まで来たのが無駄骨になったことに対して山田と鈴木が愚痴り合っている最中、ふとライは佐藤に尋ねられた。

 

 「ジン。さっき何キロ出てた?」

 

 ひとコマ置いて“さっき”というのが自分が人知れずブロンドの乗り手を追おうとしたときのことだろうと推測し、ライは街灯の明かりを使ってサイクルコンピュータを確認した。

 

 「えーっと。MAXが……64キロですね。ありゃ、そんな出てたんだ」

 

 そこまで本気を出したつもりはなかったから、予想外の数字に自分でも驚くのだった。

 

信じられないというような顔で前にいた山田と鈴木が勢いよく振り返ったのを尻目に、佐藤は特に意外に思った素振りも見せず、いつものにやにや顔で言った。

 

「さすがだな」

 

 他の3人にブロンドの乗り手の姿が見えていなかったのだとしたら、ライは暗闇の中ひとりで疾走していたこととなる。

 

 そりゃ驚かれるわと、ライは内心ひとりで納得したのだった。

 

 

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流星☆オン・ザ・バイシクル(5)

 

 ◆ 

 

 大通りを東へ。車の少ない夜道を20分も進めば、東京と埼玉の県境辺りを流れる荒川に出ることができる。

 

 一行はちょうど荒川沿いに続くサイクリングロードの南端、東京湾を背にする広大な河口が見渡せる地点に入ったところで一度止まった。

 

 この時期はまだ夜気はひんやりとしている。一行の懸念通り、河川敷はほとんど明かりもなく真っ暗でどこに川が流れているのかもわからない。真っ黒な空間の先の向こう岸には川に沿って高速道路の陸橋がずっと続いており、ちらちらと光る粒のように走る車が見える。遠く先で河口の両岸を結んでいる大きな橋だけが輝く巨大なモニュメントのように存在感を放っていた。

 

 「さあて。来てみたはいいがやっぱり暗いな」

 

 山田は闇に包まれる道の先の方を眺めながら言った。

 

 「夜だしな」

 

 佐藤が他人事のように言うと、鈴木が不安そうに、

 

 「本当に暗いなー。まさかこんな時間にここに来ることになるとはね。この暗さん中走れるのか?」

 

 「どうだろうな。ま、行ってみなきゃわからんだろ。百聞は一走にしかずって言うし、とりあえず走ってみようぜ」

 

 山田がそう言って先陣を切り、これまで通り鈴木、佐藤、ライの順で続いた。

 

 土手を下ってサイクリングロード本線に乗り、上流方面に向かって走り出す。これまで乗っていた土手が高い壁となって街の光を遮り、辺りはより一層暗くなったように感じられた。

 

 道に沿って所々に佇むようにしている街頭はどれも暗闇の中でぽつねんとしていて頼りない。4台の自転車が放つテールランプの赤い光とヘッドライトの眩い白光だけが、異界の中で際立つ侵入者の様相で煌々と輝いている。

 

 「うーっわ。全然見えねーわこれ」

 

 山田が叫んだ。その声には半笑いの響きが混じっている。あまりの視界の悪さに思わずおかしくなってしまったのだろう。

 

 その気持ちは鈴木と並んで走るライも同じだった。前に山田と佐藤が並んで走ってくれているため、後ろにつけばいいだけの分前のふたりよりは楽だが、それでもこの圧倒的な暗さによる居心地の悪さを拭いきるには到底及ばない。

 

 自車のヘッドライトのおかげで前のふたりの周囲はスポットライトに照らされているようによく見えるが、何分暗さが暗さだ。前2台のテールランプも威嚇してくるかのように眩しく、ふたりの背中越しに見える前方の景色は濃紺の夜空しかもはや色を成していない。

 

 街灯の下を潜ったときに一瞬確認できたサイクルコンピュータの画面によると、時速はおよそ20km/h前後。ライの体力的にはペダルに足を乗せているだけでいいようなペースだが、視覚的にはこれがいっぱいいっぱいである。

 

 「マジで暗えな! 危ねえよこれ。ジン、大丈夫か?」

 

 隣にいる鈴木に問われ、ライは前を向いたまま答える。

 

 「大丈夫ですよ。暗いけど、これくらいのペースなら何とか走れないこともないし。それに、俺らは山さんたちについて行けばいいだけですしね」

 

 「おい、ジン! お前先頭交代する気ねえのかよ!」

 

 すかさず山田からツッコミが入った。

 

 「ないですよー。前見えないの嫌だし。ハハ」

 

 軽くあしらい、ライはふと視線を横にずらした。

 

 真っ暗な空間を隔てて視界の奥に見えるのは、高速道路の光だけだ。休日の昼間ともなるとたくさんのサイクリストやジョガーで活気あふれるこの道も、この時間では人っ子ひとりいないどころか何も見えない。河川敷に広がる草むらや広場には初夏という時期もあって虫がいることも想像できるが、何しろあらゆるものが闇に覆われているため、生き物の気配すらも隠されてしまっている。

 

 空間の大半を支配するのはゴーゴーという風の音。それに混じって高速道路を走る車の音が微かに聞こえてくる。

 

 

 ガコン、ガコン――。

 

 

 変速。虚空に響く金属音。

 

 刻々と変わる風の流れに合わせてリズムを変えつつ、4人はゆったりと進んでいく。

 

 ライは以前は何度もここへ来たことがあったが、暗くて景色が見えないため現在地を把握することが難しかった。大学に入ってからは一度この日と同じメンバーで来たきり。その時は昼間で、先輩3人と談笑しながら河口からおよそ20km地点にある岩淵水門までゆっくりサイクリングをしたのだった。

 

 河口から5kmほど走っただろうか。この日は皆いつにもまして周囲に気を配りながらの走りであり、また夜のサイクリングロードという非日常的な空間の雰囲気に浸っていたのだろう。ここまで一貫して口数が少なかった。

 

 「幽霊ライダーどころか誰もいないじゃんかよー。佐藤、本当にいるのかよ。幽霊」

 

 ふと鈴木が愚痴っぽく言う。

 

 「俺に言われてもな。知らねえよ」

 

 佐藤は素知らぬ顔だ。

 

 ダラダラと走っている最中にふと火が入ったようにライは先頭へ躍り出た。せっかく装備を固めて出てきたのだ。曲がりなりにも元競技者として、レーシングスーツに包まれていれば多少は思い切りペダルを踏んでみたくなるものである。

 

 後ろで驚いたような声を上げる山田たちをよそに、フロントギアをアウターに切り替え、リヤも数段上げる。ダンシングでトルクのある数踏み。一気に40km/hほどまで速度を上げる。

 

 道がひたすらまっすぐで、多少目が暗さに慣れてきたおかげだ。前から見れば眩しすぎるほどのヘッドライトのおかげもあって、この速度なら何とか維持できる。

 

 シッティングに戻ると、そのままのペースでしばらく進んだ。夜風がひんやりよしていて心地よい。暗闇の中を走るのは、どこか遠い見知らぬ土地を走っているかのようだ。静寂になれずそわそわさせられるとともに、妙な高揚感を煽られる。

 

 ライは今までに味わったことのない、不思議な気分に陥った。

 

 レースからはずっと身を引いていた。競技部を引退するとともにもうしないと決め、その気持ちは今も変わっていない。

 

 でも、必ずしも自転車イコールレースというわけではない。レースをせずとも自転車を楽しむ方法はいくらだってある。ポタリングしかりサイクリングしかり。レースという各人の宿望や熱情が炎の嵐のように絡み合う戦場から離れ、こういった和やかな場所で多少踏んでみるのも悪くはない――。

 

 ライはふと、自分が依然として自転車を好いていることに気づかされるのだった。レースをやめたところで、自分は自分。自転車は自転車。頭では考えていなくとも、近くに入れば身体が勝手に引き寄せられてしまう。自分は自転車とは、切っても切り離せない関係なのだ――。

 

 さらに踏み込みたくなった。この程度の速度は大学に行き帰りの巡航速度に過ぎない。レースでもなければこれ以上出す必要もなければ出す気も起きないが、不思議なことに――今はもっとスピードを出したい。風を感じたい。車体の剛性を感じたい。タイヤのグリップを感じたい――。

 

 下ハンに持ち替え、ダンシングで踏み込む。全力を出せるような状況ではないから、あくまで7割程度の力だ。一気に加速して、後ろを千切りにかかる。

 

 1年間溜めに溜めてきた鬱憤を晴らすが如くもっと出力を上げることもできたが、いく分早めに切り上げることにした。

 

視覚を中心とした身体能力的にこれが限界だ――障害物でもあったらぶつかっちまう。これ以上はさすがに危ねー。

 

 足を止め、惰性走行に入った――そのときだった。

 

 ライは最初、先輩3人のうちの誰かが追いついてきたのかと思った。しかし、それにしてはあまりにも速く、優美だった。

 

 40km/hから踏み込み、体感によるところの速度は50km/強。この速度を簡単に越えられる人物は、ライの知るところでは少なくとも晴海サイクルのスタッフの中にはいない。

 

 次に出てきた言葉は車――しかし、それも違う。横を過ぎ去った影は明らかに人である。自転車に乗った、人だ。

 

 スーパーディープホイール特有の走行音が、後ろから迫ってくる突風のようだった。しかし、その風は近くにいる者に圧を与えることはなく、超高解像度の立体映像のように滑らかに現れた。

 

 

 ――荒川の幽霊ライダー!

 

  

 初めてその言葉がライの頭に浮かんだのは、その人物が既に10m前方まで過ぎ去ってからのことだった。

 (続く)

 

 

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流星☆オン・ザ・バイシクル(4)

 

 ◆

 

 「うわー、レースピじゃん。いいホイール履いてきたなー」

 

 ライが到着したときの、晴海サイクルスタッフ年上3人組のひとり、鈴木のセリフだ。

 

 「さすが元競技部」と、もうひとりの佐藤がこぼすように言う。

 

 「今日は軽く走るだけって言ってなかったっけか? 珍しく随分な気合入ってるみたいだけど、俺もうそんながっつり乗るつもりないぞ」

 

 鈴木が呆れたように言うのに対し、ライは落ち着いた口調で答えた。

 

 「大丈夫ですよ。別に俺も、そんな本気で走るつもりじゃないし」

 

 高校時代から愛用し、今でも足として使っているGIANT製フルカーボンオールラウンダーフレームにFULCRUM製35ミリカーボンディープホイール。レーシングデザインのサイクルウェアに高性能ヘルメット、クリアレンズのスポーツサングラス、それもOAKLEY製フラッグシップモデル。

 

 いつもは軽装でヘルメットも被らずにのんびりと乗っているだけのライの普段の姿を見慣れた者からしてみれば、これは豹変とも言える変身ぶりだったに違いない。

 

 もっとも、山田ら3人は競技部時代のライの姿も見ているため、初めてではないのだが、彼らにとってのライとは晴海サイクルでバイトを始めてからの印象の方が強かったのだろう。目も顔つきも丸っこく、やわらかい髪質で、素直そうな少年の面影を色濃く残すライは、端から見れば自転車競技はおろかスポーツ自転車に乗っていることすら想像されにくい。

 

 そういう目で今までライを見てきた者にとっては、このときのライは別人のように見えたことだろう。

 

 細身ではあるものの筋肉質な体がサイクルウェアによって強調され、ヘルメットを深々と被り、攻撃的な流線形状のサングラスの内側から低空飛行するジェット機のような視線を放つライ。本人は無意識なのだが、片足をペダルにかけたままトップチューブに体重を乗せているその姿勢は、貫禄さえも感じさせる堂々っぷりだ。

 

 圧倒され気味の先輩3人を気に掛ける様子は微塵も見せず、ライは続けて言った。

 

 「それで、行く場所は決まったんですか?」

 

 ああ、と山田が思い出したように、

 

 「そういえばまだ教えてなかったな。荒川だ」

 

 「荒川? この時間に? あそこ夜だと真っ暗で何も見えないじゃないですか」

 

 「それは承知の上さ。何しろ、あそこ、幽霊が出るらしい」

 

 「幽霊?」

 

 ライは拍子抜けしたようにわかりやすく肩をすくめた。自転車と幽霊というワードが結びつく日が来るなどということは夢にも思っていなかったのだ。

 

 「そうさ。何分佐藤がそんな話を持ってきたもんだからな。ほら、佐藤、説明してやれ」

 

 山田に促されると、佐藤は何やら嬉しそうに頬を緩ませながら、決めゼリフの格言を言うかのような調子で言った。

 

 「あそこ、幽霊が出るらしい」

 

 「……おお」

 

 思わずライは困惑と感嘆の混ざった声を漏らす。

 

佐藤は自分のした説明に満足しているようだったが、ライには山田が言ったセリフを繰り返しただけにしか聞こえなかったし、おそらくそれは残りのふたりにとっても同じだっただろう。

 

「おい、それだけかよ」

 

 すかさず鈴木がツッコミを入れる。

 

 「幽霊ライダーが出る、って噂だぜ」

 

佐藤は付け足し、悦に入ったようだ。良い反応が返ってくるのを期待しているかのような目でライを見つめる。

 

なるほど、としか返答の言葉を用意できないライは、救いを求めて山田の方を見た。

 

山田はその視線の意味をわかりきっている様子で、

 

「そんなんじゃ全然わかんねえよ。つまりだな、こいつの言うところに寄れば、夜の荒川を走ってると、いきなり後ろから自転車に乗った幽霊に抜かされるそうだ。そいつがめちゃくちゃ速くて、暗いのに猛スピードで飛ばしていくもんだから、追おうとしても絶対追いつけないんだってな。それどころか、そいつの姿を見ると後で必ず事故るらしい――そんな話だったよな?」

 

 「俺の知り合いは抜かされた直後に草むらに突っ込んだらしいぜ」と、佐藤は得意そうに答える。

 

 ライは聞こえるか聞こえないかギリギリくらいの声でぼそっと、

 

 「それって、ただ暗くて見えてなかっただけじゃ……」

 

 「ま、事故るか事故らないかの話は別としてだ。俺も気になってちょっと調べてみたんだが、確かに荒川の幽霊ライダーは周辺の走り屋の間ではちょっとした有名人になってるみたいだ。目撃者もそれなりにいるみたいだし、興味深いところではあるな」

 

 そう言った山田はあくまで自分は客観的な立場を守るといった風で、本気で信じてはいないように見える。

 

 「でもさ、ただ単にめちゃくちゃ速い人だって可能性もあるよな。道を知り尽くしてるから暗くても関係ないのかも」

 

 訝しげに言った鈴木に対し、佐藤が、

 

 「そいつ、光ってるらしい」

 

 「光ってる!?」

 

 全員揃っての反応だった。

 

 突拍子もない言葉に、呆れ気味に話を聞いていたライも思わず身を乗り出してしまうほどだった。

 

 「それは初めて聞いたぞ。どういうことか説明しろよ」と、山田。

 

 佐藤は一同の驚きを得られて嬉しかったのか、より満足そうな笑みで言う。

 

 「光りながら走ってるんだってな。よく知らねえけど、金色らしい」

 

 「何だよそれ。本当に幽霊なのか? UFOとかUMAの類かもしれねえぞ」

 

 「何にしろ、実在してたら怖えよ」

 

 呆れ顔で山田と鈴木が順に言った。

 

 「さあな。俺も話聞いただけだから本当か嘘かは知らねえよ」

 

 佐藤が無責任にも追及を回避したところで、山田は開き直ったように、

 

 「ま、よくわかんねえけど、こうしてても仕方ないし、気になるからとにかく行ってみようぜ」

 

 そう言い、この日の心霊調査と称したサイクリングが決行されたのである。

 

 山田を先頭に列を組んで向かっている途中、ライは佐藤の隣へ寄って聞いてみた。

 

 「ちなみになんですが、その話って誰から聞いたんですか?」

 

 すると、佐藤はにやりと、得意そうな顔で、

 

 「ん? ツイッターだよ。全部フォロワーに聞いた話」

 

 内心拍子抜けしながらも、名目を無視すれば普通の夜のサイクリングだと開き直り、ライは先輩3人の後を追うことに専念した。

 

 

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流星☆オン・ザ・バイシクル(3)

 ◆

 

 2日後、日曜日のこと。

 

 ライはこの日は午後からバイトで、夕方の休憩時間のことだった。

 

 今年ももう5月になってから久しい。傾いても日差しにはまだまだ熱エネルギーが込められていて、時折吹く生暖かい風が心地よく感じられる。

 

 店の表に愛用のアウトドアチェアを出し、前を流れる川や行き交う人々をぼんやりと眺めていると、店のスタッフのひとりである山田が隣に同じように腰かけてきた。

 

 「お疲れさんっ」という陽気な声とともに肩をぽんと叩かれる。

 

 ライは声の主をちろっと見ただけで、すぐに前に顔を戻して答えた。

 

 「山さん、お疲れです。作業終わったんですか?」

 

 「ああ、何とかなー。あの自転車、ワイヤーもチェーンもたるんたるんに伸びきってやんの。何とかそのまま調整してやろうと思ったんだけど、だんだんイライラしてきて全部とっかえてやったよ。部品代高く付けてやる」

 

 「へえ」

 

 特に興味もなさそうにライは答える。そんな彼の様子に山田も特に気を悪くする素振りはせず、椅子に深々と座って持ってきた缶コーヒーのふたを開けた。

 

 そして豪快な素振りで一気に中身を飲み干し、一呼吸おいてから、

 

 「今夜さ、佐藤と鈴木と軽く走りに行こうって話してんだけどな。もし良ければだけど、ジン、お前も一緒にどうだ? 別にがっつり乗るわけじゃなくて、気晴らし程度だよ」

 

 ライは景色に見入っているフリをして、すぐには答えなかった。

 

 ライの他のスタッフである山田、佐藤、鈴木の3人もまたロードバイクを駆る走り屋であり、仲の良い彼らがしょっちゅう一緒に走りに行くのにライも誘われるのは珍しいことではなかった。

 

 しかし、この3人は全員一応走り屋を自称している身であるため、行く場所も内容もまた、彼らの自負に見合った高強度コースであることがほとんどだ。峠、インターバル練、周回コース――ライもまた競技部時代に嫌というほど馴染んだ言葉ではあるが、これ以上レースをする気のないライは当然そのような走り方をするつもりももはや失っている。誘われていくとしたら、せいぜい慣らし程度の近場サイクリングだけだった。

 

 今回もつまりそういうわけだ。トレーニングであればライが来ないのはわかりきったことであり、修練目的を含まない軽い走りだからと山田は誘ってきたのだ。

 

 道行く人を5、6人ほど観察してからライは答えた。

 

 「いいですよ。俺も行きます」

 

 「よし。じゃあ店閉めたら着替えて直行だな! って言ってもお前は格好そのままだから着替えるのは俺たちだけか。ジンが来てくれんのはレアだからなー、ワクワクするぜ。早上がりしてもう行っちゃうか」

 

 はやる胸の内を抑えきれない様子の先輩を見ながら、ライはひとコンマ置いて、思い切ったように言った。

 

 「俺も着替えていきます」

 

 「……え?」

 

 口を解かれて空中を狂喜乱舞する風船のように興奮が飛んで行ってしまったかのようで、山田はぽかんと固まった。

 

 ライはそんな先輩の驚愕を気にする様子も見せず、

 

 「いや、ちょっと気が変わっただけです。たまにはしっかり自転車乗るにもいいかなと思って。久々にレーパン履きたいし」

 

 「お、おう。ま、別にそりゃ構わないんだがな」

 

 「だから、店閉めたら一回家帰るんで、ちょっとだけ待っててもらえますか?」

 

 「構わねえぜ。でも、一体どういう風の吹き回しだ? お前がレーパンで来るなんて、珍しいじゃんか。ていうか、大学入ってからは初めてだよな?」

 

 山田の言葉通り、ライは競技部を引退して以来、サイクルウェアで自転車に乗ったことは一度もなかった。

 

 着る必要がなかったというのが最大の理由であり、つまり、自転車に乗るとすれば大学に行くか近場をのんびりと走る程度で、レースに出ることはおろか長距離サイクリングに行くことすらなかったライにとっては普段着で十分だったのだ。

 

 それが突然、これまた気晴らし程度のサイクリングであるのにウェアで来るというのだから、山田が驚いたのも無理はない。

 

 「ま、そういうことになりますけど……。特に大した理由じゃないですよ。ただほんと、何となくです」

 

 ライが困った顔で答えると、山田は突然にんまりと笑った。

 

 「つまり、あれか。一昨日の姉ちゃんの言葉に触発されたってわけか」

 

 「うーん。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし――って山さん、何でそんなニヤニヤしてんですか」

 

 「いやあ、別に。ただ、羨ましくてなー。気持ちはわかるぜ。俺だって、あんな可愛い姉ちゃんに自転車に乗ってる姿が見たいなんて言われれば、チーターが獲物に飛びつくのよりも速く自転車に乗らない自信はないぜ」

 

 ライは口をあんぐりと開けて山田を横目で睨む。

 

 「そういうことじゃないですから。ただちょっと、久しぶりに走ってもいいかなって気分になっただけです。それに、山さんの場合は姉ちゃんじゃなくて彼女でしょ」

 

 「うるせー。彼女がいないのはお前だって一緒だろ」

 

 「んん? 何のことですか? 俺には姉ちゃんがいますもん。先輩よりは女っ気ありますよ」

 

 「このシスコン野郎が。それなら俺にだって自転車があるさ。走り屋に女はいらないって言うしな」

 

 「それは悲しい」

 

 そうして営業時間終了とともに店を飛び出したライは、この日は家から直接歩いて来ていたため、小走りで家へ帰った。

 

 サイクルウェアに着替えて、5分と経たずに愛用のロードバイクとともに家を出る。箪笥に眠っていたウェアは1年ぶりとは言え、自転車競技を始めてから競技部引退までは毎日のように来ていた服だ。感触は昔と変わらない。違和感もなく着こなせる。

 

 道路に出て車上の人となったライは、専用ウェアで自転車と一体化する久しぶりの感覚に懐かしさと新鮮さが混ざったような不思議な気持ちになった。

 

 そして、既に準備万端で店前で待っていた山田たち3人と合流し、そこで荒川の心霊ライダーの話を聞くこととなる。

 

 

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